聖書のみことば
2022年5月
  5月1日 5月8日 5月15日 5月22日 5月29日
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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■音声でお聞きになる方は

5月8日主日礼拝音声

 コルバン
2022年5月第2主日礼拝 5月8日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)

聖書/マルコによる福音書 第7章9〜13節

<9節>更に、イエスは言われた。「あなたたちは自分の言い伝えを大事にして、よくも神の掟をないがしろにしたものである。<10節>モーセは、『父と母を敬え』と言い、『父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである』とも言っている。<11節>それなのに、あなたたちは言っている。『もし、だれかが父または母に対して、「あなたに差し上げるべきものは、何でもコルバン、つまり神への供え物です」と言えば、<12節>その人はもはや父または母に対して何もしないで済むのだ』と。<13節>こうして、あなたたちは、受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている。また、これと同じようなことをたくさん行っている。」

 ただいま、マルコによる福音書7章9節から13節までをご一緒にお聞きしました。主イエスがファリサイ派の人々や律法学者たちのあり方を厳しく批判をなさった言葉が語られています。9節に「更に、イエスは言われた。『あなたたちは自分の言い伝えを大事にして、よくも神の掟をないがしろにしたものである』」とあります。
 率直に言って、これほど厳しい主イエスの非難の言葉を聖書から聞かされることは、あまり気が進まないと感じられるかもしれません。私たちは決して平穏な毎日を過ごしているとは限りません。日々の生活の中で、時に大変厳しい対立の場面に出会ったり、誰かが他の人を悪し様に言う言葉を聞いて辛い気持ちになったり、あるいは人と人、国と国の争いを見て辛い気持ちになったりすることがあります。せめて日曜日ぐらいは、そういう平素の荒々しい荒んだ生活から解放されて、一時神の愛の御言葉に耳を傾け、魂の洗濯をしたいと思って礼拝にいらっしゃる方もおられるのではないでしょうか。それなのに、日曜日にまで厳しく言い争う言葉を聞かされるのかと思うと辛い気持ちになってしまうのです。出来れば日曜日ぐらいは、この世の争いごとから解放されて、神の愛と慈しみが自分たちの上にあるということを耳にして慰められたいと思うのです。

 しかしそれにしても不思議に思います。どうして主イエスはこんなにも攻撃的なものの言い方をなさるのでしょうか。主イエス・キリストという方は、私たち人間の咎と過ちの一切を御自身の上に引き受けて十字架にかかってくださり、その死と苦しみをもって私たちの罪を清算してくださった方ではないでしょうか。私たちは3週間ほど前に、この方の十字架の死からの復活を、神がこの方を甦らせてくださり永遠の命のうちに生きるようにしてくださったことを覚えるイースターの祝いを、皆で守ったばかりです。主イエスが十字架にかかってくださって、その御苦しみによって私たちの全ての罪が精算され、私たちは今や罪を赦され主によって清められた神の子らとして神の御前に呼び集められ、ここに導かれているはずです。それならどうして、礼拝の中でこのように激しい主イエスの非難の言葉を耳にするのでしょうか。解せません。
 主イエスが十字架にかかって私たちの罪を滅ぼしておられるのならば、そこでは当然、赦しの言葉が語られるのではないでしょうか。主イエスは御自身の十字架の意味をよく分かっておられるはずです。私たち人間の側に、いつでも至らないところがある、どんなに努力しても神を忘れ神抜きで生活してしまう弱さがある、そしてそのために日々の生活の中においても過ちを犯してしまうことがある、そのことをよくご存知です。だからこそ、そういう私たちの罪に対する神の厳しい裁きの身代わりとなってくださった、それが主イエスであるはずです。そうであれば、他の誰かが私たちの至らなさや罪について厳しく言い立てることがあるとしても、主イエスだけは、「その罪には既にきちんとした精算がつけられている」ということをご存知なはずです。
 もちろん、今日の聖書の箇所のこの時点では、主イエスは地上の御生涯の中を歩んでおられ、十字架の出来事はまだ起こっていません。けれども主イエス御自身は、御自分がやがて十字架におかかりになることを分かっておられるはずです。十字架に向かって、主イエスは弟子たちや群衆の間を歩んでおられるのです。主イエスはここでこのように攻撃的にならなくても、御自身の十字架によって全ての罪を執りなすことになるのだとお考えになって、静かに十字架への道を進んで行かれてもよかったのではないでしょうか。その点がどうも腑に落ちないのです。
 もしかすると、今日の箇所には、主イエスの今からなさろうとしておられる十字架と復活の御業と私たち人間との間をすっぱり断ち切ってしまうような何かが、主の御業と私たちを全く関わりのないものとする、そういうものが隠されているのではないでしょうか。そしてそのために主イエスは、平静に落ち着いていることができず、厳しい口調になっておられるのではないでしょうか。

 「主イエスが十字架と復活によって私たちのためにしてくださった救いの御業が私たちとまるで関わりのないものになってしまうとは、どういうことだろうか」と思いながら、改めて今日の箇所を聴きますと、最後に主イエスがおっしゃっている言葉に気づかされます。13節に「こうして、あなたたちは、受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている。また、これと同じようなことをたくさん行っている」とあります。主イエスがここで気にしておられることは、「神の言葉が無になってしまう」ということです。神の御言葉が私たちに慰めを与え勇気を与え、生きようとする活力を与え命を与えてくださるのですが、その御言葉が無になってしまうということが起こる、その点に主イエスは興奮し攻撃的になっておられるのです。
 ここでは、「受け継いだ言い伝え」が神の御言葉を無にすると言われています。主イエスは、「あなたたちは、自分たちの間の言い伝えを有り難がって、神の御言葉をないがしろにしている」と言われますが、しかしこのように言われても、私たちにはなかなかピンときません。いったい何が神の御言葉と私たちの間に立ちはだかって、その繋がりを切ってしまうのか、私たちはすぐにこうだと思い至ることは難しいと思います。

 それで主イエスは、そのことを分からせようとして、ユダヤ人なら誰でも身近に感じるはずの十戒の言葉を例に挙げながら説明をなさいました。それが10節から12節の言葉です。「モーセは、『父と母を敬え』と言い、『父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである』とも言っている。それなのに、あなたたちは言っている。『もし、だれかが父または母に対して、「あなたに差し上げるべきものは、何でもコルバン、つまり神への供え物です」と言えば、その人はもはや父または母に対して何もしないで済むのだ』と」とあります。
 主イエスがここで問題になさっている状況は分かるような気がします。すなわち、ある人にすっかり歳をとった両親がいて、両親はもはや自分たちで収入を得ることが難しくなっています。その場合に、当時は当然のこととして、子供には親を扶養してその生活を支える務めがありました。「あなたの父と母を敬え」という十戒の言葉は、ただ心の中で父母を慕い尊敬すれば良いというのではありません。もちろん、子供の側の経済状況にもよりますが、しかし子供たちはそれぞれに自分の出来る範囲で精一杯に親を支えなくてはなりません。
 ところが実際には、その務めをなおざりにするようなことがしばしば見られました。そしてその際、子供の側の言い訳に使われたのが「コルバン、神への献げ物」だったと言われています。
 「コルバン」はここにも説明されていますが、「神への献げ物」のことです。コルバンの規定は旧約聖書レビ記1章2節に記されています。1章2節「イスラエルの人々に告げてこう言いなさい。あなたたちのうちのだれかが、家畜の献げ物を主にささげるときは、牛、または羊を献げ物としなさい」。「献げ物」と訳されている言葉は、原文では「コルバン」と書かれています。原文のコルバンを活かしながら訳すと、「あなたがたが家畜でコルバンを献げるときは、牛または羊をコルバンにしなさい」となります。
 けれども、これはある程度経済的に裕福な家庭の場合であって、経済状態によってはとても牛や羊といった大きな家畜を献げ物にできないという場合もあります。そういう場合には、1章14節に「鳥を焼き尽くす献げ物として主にささげる場合には、山鳩または家鳩を献げ物とする」とあり、「山鳩または家鳩をコルバンにする」という書き方です。そしてさらに2章1節には「穀物の献げ物を主にささげるときは、上等の小麦粉を献げ物としなさい」とあり、「穀物でコルバンを献げる場合には、上等の小麦粉をコルバンにしなさい」と書いてあります。このように、神にお献げする献げ物を指してコルバンと言うのです。

 今日の箇所で主イエスが問題として挙げておられるのは、コルバンを隠れ蓑に使って歳をとった両親を扶養する義務から逃れようとする例が見受けられるということです。歳をとって社会的に立場が弱くなった両親を軽んじ、きちんと養おうとしない、そういう不埒な息子たちがいて、「きちんと養ってくれない」と言って嘆く親を黙らせるために、「あなたが当てにしているこの食料は、神さまへの献げ物なのだ」と言っていたようなのです。そんな心無い行いをする人がいるのかと不思議に思うかもしれませんが、実は、主イエスの時代だけではなく、もっと昔の旧約時代からこういうことはあったようです。旧約聖書ホセア書にその実例が出てきます。8章13節に「わたしへの贈り物としていけにえをささげるが その肉を食べるのは彼らだ。主は彼らを喜ばれない。今や、主は彼らの不義に心を留め その罪を裁かれる。彼らはエジプトに帰らねばならない」とあります。
 不埒な行いをする人たちは、献げ物として上等の牛や羊の肉を祭壇に献げますが、焼き尽くす献げ物と違って、献げ物の中でも和解の献げ物の場合には、ある程度肉を炙ったらその肉を献げた人が食べることができたために、形の上ではいかにも神への献げ物を献げているように見せながら、実は、献げる格好をした人が皆その肉を食べてしまっている、ホセア書に言われているのはそういう場面です。預言者ホセアは、そういう形ばかりの献げ物の風習を非難して、「ただ形式的にコルバンを献げているだけで、その心は造り主であり毎日を支えてくださる神への感謝を忘れている」と言っています。「神を敬っているように見せながら、しかしその腹では自分自身の欲望の虜になっている。そういうあり方を神はきっとお見過ごしにならない。もう一度エジプトの奴隷暮らしに逆戻りさせられることになるに違いない」、ホセアはそういう警告をここで語りました。
 このように、上辺だけを取り繕いながら、しかし自分自身の欲望を追い続ける浅ましい人間の姿というのは、主イエスの時代にもホセアの時代にも、世間の至る所で見られたのでした。

 今日の箇所で主イエスは、世の中でしばしば見られたそういうあり方を、「人の言い伝えによって、神さまの言葉を無にしている」と言って非難なさいました。
 もちろん、神への献げ物は大切なことです。しかし、「父と母を敬う」ということも、同様に大切なことなのです。その両方を天秤にかけて、神にお仕えする方がより大事なのだから、父母は貧しさを我慢するべきだと考える、まさにその点が人間の側の勝手な言い伝えだと主イエスはおっしゃるのです。「聖書にはあなたの父と母を敬わなければならないと書いてあるではないか。それなのにあなたがたはその言葉をないがしろにして、『コルバン』だと言って親を養おうとしない」と非難しておられるのです。

 けれども、よく注意して聞いておかなければならないのですが、主イエスがここで「コルバン」を持ち出しておられるのは、ただの一例としてのことです。13節で「こうして、あなたたちは、受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている。また、これと同じようなことをたくさん行っている」とあります。主イエスが気になさっておられるのは、コルバンの問題だけではないのです。神の言葉を時と場合に応じて自分に都合よく曲げて解釈して、それを気ままに軽く受け取り、またある時にはそれを隠れ蓑みたいにして非常に重々しく語りながらしかし結局は自分のやりたいようにしている、そういうあり方を主イエスは気にしておられます。どうしてかというと、そんなことをしていたら、私たち人間の思いの方が先に立ち、神の言葉はいわばそれを飾るアクセサリー程度になってしまい、最後には神の言葉はもはや神の言葉として私たち人間に受け止められなくなってしまうからです。
 そうなれば、神の御言葉として聞かされている主イエスの救いの業も、時には都合よく受け取るけれど、それ以外は自分とは何も関わりがないことになってしまうことでしょう。主イエスは、そのような人間の気ままなあり方を非難しておられるのです。

 もちろん、神の御言葉は、私たちに全てが分かるかというと、そうとは限らないと思います。聖書の中には本当に分かりにくいと思うような言葉も出てきます。
 例えば主イエスが弟子たちにおっしゃった「生きる」という言葉は、私たちにはなかなか分かりづらいのではないかと思います。ヨハネによる福音書14章19節20節に「しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる」とあります。
 「しばらくすると、世はもうわたしを見なくなる」、これは主イエスの十字架のことを指しています。主イエスが十字架上で死なれ、そしてそのためにもう地上で主イエスを見ることはなくなると言われているのです。これは分かります。そしてまた、主イエスは十字架上で死なれたけれど復活なさったということは、私たちの間に言い伝えられていて、私たちはそれを聞いて信じています。しかし、ここに言われている「主イエスを見る」とか「主イエスが生きているので、私たちも生きることになる」というのは、どういうことなのでしょうか。私たちには、主イエスが教えてくださることの全てがよく分かっているとは言えないと思います。

 けれども、分からないことがあるからといって、それを無かったことにはできません。クリスマスの日に、主イエスの母マリアが「見聞きしたことを全て心に納めて思い巡らしていた」という姿が、ルカによる福音書に書かれています。
 私たちもまた、聖書から聞かされている福音を全体として受け止め、思い巡らすというふうでありたいと思うのです。自分に受け取りやすい言葉だけを受け取ってそれで全部が分かったつもりになったり、自分の思いや考えによって主イエスの御業を決めてしまうということになると、もしかすると私たちは、主イエスが私たちのために行なってくださった救いの御業から離れてしまうことにつながりかねないと思います。
 そして、私たちがそのようにならないように、聖書の言葉を気ままに解釈して自分の思いに合わせてしまわないように、主イエスは今日の箇所で、「あなたたちは、受け継いだ人間の言い伝えで神の言葉を無にしているということがあり得るのだよ」と警告を発しておられるのです。

 神の御言葉は力に満ちています。私たちのための救いを実現していくという力に満ちています。そして、そういう力ある御言葉が今日も私たちの上に語りかけられているのです。「わたしが生きているのであなたがたも生きることになる」、本当に、それは確かにそうなのです。主イエスが復活して生きておられるので、主イエスの御言葉が私たちに語りかけられ、そして私たちはその御言葉に力をいただき慰めをいただいて、生きていくのです。私たちに御言葉をかけ、私たちを生かそうとしてくださる神に感謝をして、そして私たちが自分自身の身を捧げて生きる思いを、もう一度確かにされたいと思います。

 主イエス・キリストを通して私たちに語りかけ働きかけ、力を与えてくださる神に感謝をして、ここからの生活を持ち運ばれて行きたい、そして主に仕える者としての生活を確かにされたいと願います。
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